企業間取引では、すべての案件で詳細な契約書を作成しなければならないとは限りません。一方で、「これまで口頭で問題なく取引できていた」という理由だけで重要な条件を記録しないままにしておくと、担当者の交代や仕様変更、料金の認識違いなどをきっかけに、トラブルにつながることがあります。
自社で確認できるビジネス上の条件と、法的な検討が必要となる事項の違いを把握し、取引の安全性を高めるための判断材料としてご活用ください。
なぜわざわざ契約書を作るのか?口頭ベースの取引に潜む実務上の落とし穴

契約書の役割は、取引相手を疑うためのものではなく、当事者間で合意した内容を後から確認できるようにしておくための記録です。
日本の民法では、法令に特別の定めがある場合を除き、契約の成立に書面の作成などの方式は必要とされていません。そのため、契約の内容について当事者間の合意が成立すれば、口頭で契約が成立する場合もあります。
ただし、口頭で合意した場合には、後になって「どのような条件で合意したのか」を確認することが難しくなる場合があります。特に、金額、業務範囲、納期、検収方法、契約期間などの重要な条件について認識が食い違うと、トラブルにつながる可能性があります。
例えば、次のようなケースです。
【想定ケース】担当者の交代によって認識が食い違った場合
継続している取引の途中で仕様の追加があり、担当者同士では追加料金を含めて対応することで話がまとまったとします。
ところが、その後担当者が異動し、後任者が当時のやり取りを把握していなかった場合、「当初の発注内容に追加料金は含まれていない」という認識の違いが生じる可能性があります。
このような場合、メールやチャット、見積書、発注書などに追加内容や金額についての記録が残っていれば、当時の合意内容を確認する手掛かりになります。
口頭で合意した内容が直ちに無効になるわけではありませんが、合意内容を後から確認できる記録がないと、事実関係をめぐる争いが生じた際に対応が難しくなることがあります。
そのため、重要な取引については、契約書に限らず、発注書・請書・合意書・メールなど、取引内容に応じた方法で合意事項を記録しておくことが重要です。
「民法改正」により契約内容の明確化が重要になった背景
契約内容を明文化することが重要となる背景の一つとして、2020年4月に施行された改正民法によって、従来の「瑕疵担保責任」が「契約不適合責任」に改められたことが挙げられます。

口頭や発注書だけでは危険?契約書を作成すべき取引・省略できる取引の境界線
すべての取引で分厚い契約書を交わす必要があるとは限りません。実際には、取引の性質や内容、継続性、金額、想定されるリスクなどを踏まえて、どの程度の書面化が必要かを検討することになります。
以下は一般的な判断の目安です。
| 取引の性質 | 契約書の考え方 | 実務上の対応・判断基準 | 具体例 |
|---|---|---|---|
| 少額・単発でリスクが限定的な取引 | 契約書を作成しない方法も考えられる | 見積書・注文書・請書などで主要な取引条件を確認する。金額だけでなく、業務内容、納期、損害発生時の影響、知的財産権・秘密情報の有無なども確認する。 | オフィス用品の単発購入、内容が明確な簡易作業 |
| 継続的・高額な取引 | 契約書の作成を検討する | 基本契約書と個別の発注書等を組み合わせる方法もある。取引期間が長い場合や、トラブル時の影響が大きい場合は、条件を整理しておくことが重要。 | 毎月のシステム保守、高額な機材導入、中長期のコンサルティング |
| 法令上、取引条件の明示等が必要な取引 | 法令に従った対応が必要 | 法定の事項について、書面または認められた電磁的方法などにより明示・記録する義務が生じる場合がある。 | 取適法の対象取引、フリーランス法の対象取引など |
| 建設工事の請負契約 | 建設業法に基づく対応が必要 | 建設業法に定められた事項について、契約締結時の書面等に関するルールがあるため、一般の企業間取引と同じようには扱えない。 | 建設工事の請負 |
ここで重要なのは、「契約書を作成する義務」と「法令上、取引条件を明示・記録する義務」は同じではないということです。
例えば、2026年1月1日に施行された中小受託取引適正化法(取適法)では、対象となる取引について、委託事業者に発注内容等を直ちに書面または電磁的方法により明示する義務などが課されています。取引の内容や当事者の規模などによって適用関係が変わるため、自社の取引が対象となるかを確認する必要があります。
また、フリーランス法の対象となる取引では、発注事業者は、フリーランスに対して、業務委託をした場合に取引条件を直ちに書面または電磁的方法で明示する必要があります。口頭だけで済ませることはできません。
一方、建設工事の請負契約については、建設業法第19条に契約内容の書面への記載等に関する規定があります。建設工事については、一般的な企業間取引とは別に、建設業法のルールを確認する必要があります。
つまり、「契約書が必要か」という一つの基準だけで判断するのではなく、その取引にどのような法令上の明示・書面化義務があるかを確認することが大切です。
「印紙代の節約」で契約書を作らないリスクと電子契約の活用
契約書を紙で作成する場合には、契約内容によって印紙税が課税されることがあります。そのため、「収入印紙代や郵送・保管の負担を抑えたい」という理由から、電子契約を検討する企業もあります。
一般に、電子契約などの電磁的記録そのものは、印紙税法上の「文書」には含まれず、紙の契約書とは印紙税の取扱いが異なります。
ただし、「電子契約なら必ず印紙税がかからない」という単純な説明は避ける必要があります。 印紙税は、実際に作成する文書の内容や取引形態などによって判断されます。また、紙の変更契約書などを別途作成する場合には、その文書について印紙税の検討が必要となることがあります。
そのため、印紙税の負担を理由に契約書の作成そのものを避けるのではなく、電子契約を含めて、取引に適した方法を検討することが重要です。
広告
相手が出してきた契約書や「ネットの無料ひな形」にそのままサインするリスク
契約書を用意する際、「ネット上にある無料のひな形をそのまま流用する」「相手方から提示された契約書を内容を確認せずに締結する」といった対応には注意が必要です。
契約書のひな形は、作成された目的や想定されている取引を前提として作られているため、自社の実際の取引にそのまま適合するとは限りません。 また、相手方が用意した契約書についても、自社にとって重要な条件が十分に反映されているとは限りません。
例えば、業務委託契約のひな形を使用する場合でも、自社の業務内容と契約書の記載が一致しているか、損害賠償や解除などの条件が自社の取引実態と合っているかを確認することが重要です。
「無料だから危険」「相手が作ったから必ず相手に有利」ということではありません。重要なのは、その契約書の内容が、自社の取引実態や希望する条件と合っているかを確認することです。

「長年の口頭取引」を角が立たないように書面化する切り出し方
法律上のリスクは理解していても、「長年口頭でやってきた取引先に、突然『契約書を作りましょう』とは言い出しにくい」と感じることもあるでしょう。

関係性を壊さずに書面化を進める場合は、相手方を疑っているという印象を与えるのではなく、今後の取引条件を双方で確認しやすくするための整理として伝える方法があります。
例えば、次のような伝え方です。
- 社内体制の変更を理由にする
「社内の契約管理体制を見直しており、継続取引についても条件を整理することになりました」 - 取引条件の整理を理由にする
「これまで口頭で確認していた条件を、担当者が変わっても確認できるよう、一度書面にまとめたいと考えています」 - 認識違いの防止を理由にする
「今後の仕様変更や料金条件について認識違いが起きないよう、基本的な条件を一度整理させていただければと思います」
なお、法令対応を理由にする場合は、実際にその法令が当該取引に適用されるかを確認したうえで説明することが重要です。
例えば、インボイス制度に対応することと、一般的な企業間取引について契約書を作成することは別の問題です。また、取適法やフリーランス法についても、対象となる取引・事業者に該当する場合に法令上の義務が生じるため、「制度対応のため、すべての取引で契約書が必要になった」といった説明は避けるべきです。

契約書の確認において「自社で判断できること・専門家に確認したいこと」の整理
契約書の整備を進める際には、自社で確認できる事項と、法的な検討が必要となる事項を分けて考えると整理しやすくなります。
| 確認項目 | 自社で確認しやすい領域 | 専門家への相談を検討したい領域 |
|---|---|---|
| 取引の基本条件 | 単価、数量、納品日、支払条件など、実際の取引内容と契約書の記載が一致しているか。 | 法令上の規制や強行法規との関係について確認が必要な場合。 |
| 業務の仕様・範囲 | 納品物の仕様、自社が提供するサービスの範囲が実態と合っているか。 | 契約不適合責任など、法的な責任範囲について検討が必要な場合。 |
| 有事のリスク分担 | トラブル発生時に、事業上どこまで対応できるか。 | 損害賠償の範囲・上限、免責条項など、法的な影響を具体的に検討する必要がある場合。 |
| 権利の帰属・解除 | 納品物について、どのような利用や権利移転を想定しているか。 | 著作権・特許権等の知的財産権、解除条件などについて法的な検討が必要な場合。 |
自社で判断できるのは、主として「実際の取引内容や希望するビジネス条件が契約書に反映されているか」という部分です。
一方、契約条項が法律上どのような意味を持つのか、相手方との交渉が必要なのか、紛争に発展する可能性があるのかといった事項については、内容に応じて弁護士その他の専門家への相談を検討する必要があります。
契約書を作成・整備する際には、このような役割分担を意識することが大切です。
広告
トラブルを未然に防ぐために、まずは自社の取引状況の棚卸しから
これまで述べてきたように、契約書は重要な取引条件を確認するための有効な手段ですが、すべての取引について、今すぐ詳細な契約書を作成しなければならないというわけではありません。
まずは実務の第一歩として、自社の取引状況の棚卸しから始めてみましょう。
などをリストアップします。
そのうえで、「どの取引から書面化を進めるべきか」「現在使用している契約書のどの部分を確認すべきか」など、判断に迷う部分があれば、取引内容を整理したうえで専門家に相談する方法もあります。

よくある質問(FAQ)
- Qメールやチャットの履歴があれば、契約書の代わりになりますか?
- A
メールやチャットの履歴も、当事者間のやり取りや合意内容を示す資料になり得ます。ただし、複数のメールやチャットに条件が分散していると、「最終的に何を合意したのか」を確認することが難しくなる場合があります。
特に金額、業務範囲、納期、検収、契約期間など重要な条件については、契約書、発注書・請書、合意書など、内容を整理した記録を残しておくとよいでしょう。
なお、取適法やフリーランス法など、法令上、取引条件の明示方法や時期が定められている場合には、単にメールやチャットの履歴が残っていればよいとは限りません。対象となる制度の要件を確認する必要があります。
- Q相手が「どうしても契約書は作りたくない」と拒否してきた場合はどうすればいいですか?
- A
まずは、相手方がなぜ契約書を作りたくないのかを確認しましょう。「手続きが増えるのが負担」「自社のひな形を使いたい」など、理由によって対応は変わります。
契約書そのものの締結が難しい場合でも、取引内容に応じて、見積書、注文書・請書、合意書などに重要な条件を整理して残す方法があります。
ただし、法令上、取引条件の明示等が義務付けられている取引では、必要な事項・方法・時期を満たす必要があります。また、自社で作成した書面を用意しただけで、すべての法的な問題が解消されるわけではありません。
取引条件に不安がある場合は、具体的な取引内容を整理したうえで、必要に応じて専門家に確認することをおすすめします。
- Q「秘密保持契約(NDA)」だけ結んでいれば、業務委託契約書は省略しても大丈夫ですか?
- A
- Q契約書を作りたいのですが、何を準備して相談すればよいですか?
- A
まずは、相手方との取引内容が分かる資料をご用意ください。
例えば、
- 見積書
- 発注書・請書
- 現在使用している契約書
- メールやチャットでのやり取り
- 業務内容
- 報酬や支払条件をまとめた資料
などです。
「契約書のどこをどう決めればよいか分からない」という段階でも、現在の取引実態を整理し、どの条件を書面に残すべきかを確認することから始められます。

まとめ:自社判断が難しい場合は状況整理から
口頭ベースの取引や無料ひな形の利用は、それ自体が直ちに問題となるわけではありません。しかし、重要な取引条件が記録されていなかったり、自社の取引実態と契約書の内容が合っていなかったりすると、後になって認識の違いが生じる可能性があります。
まずは自社の取引状況を棚卸しし、どの条件を書面化しておくべきかを整理することが重要です。
「何を契約書に入れるべきか分からない」「相手から提示された契約書のどこを確認すればよいか分からない」という場合は、いきなり契約書全体を見直そうとする必要はありません。
まずは、
①取引内容
②金額・支払条件
③業務範囲
④納期・検収
⑤契約期間・解除
⑥損害賠償
⑦知的財産権
の7項目を整理してみましょう。
契約書の見直しは「問題が起きてから」ではなく「問題が起きる前」に
契約書の見直しは、トラブルが発生してから行うより、取引開始前や契約更新時など、条件を確認・変更しやすいタイミングで行う方がスムーズです。
特に、長年同じ契約書を使っている場合は、現在の業務内容や料金、担当者、システム、個人情報の取り扱いなどが、契約書の内容と一致しているか確認してみましょう。
そのうえで、自社だけでは判断しにくい条項や、現在の取引実態と契約書の内容が合っていない部分があれば、専門家に相談することで、どこから手を付けるべきかを整理しやすくなります。
当事務所でも、契約書の作成について、取引内容やご希望を伺いながら、必要な事項を整理するサポートを行っています。
なお、個別の紛争についての交渉や、弁護士にしか取り扱うことのできない法律事務など、行政書士の業務範囲を超える事項については、弁護士等の専門家への相談をご案内する場合があります。
どの契約から書面化を進めるべきか、どのような資料を整理すればよいかなど、自社だけでは判断しにくい場合は、まずは現在の取引状況を整理するところから始めてみてはいかがでしょうか。

